熊谷幹雄先生のこと
 昭和33年4月1日に小さな産声をあげた私たち。多感な青春期を岩高プレクトラムアンサンブルと共に送った若人が、合奏の喜びを今一度と集い、初めてのOB演奏会を企画・開催したのがその年の8月24日のことでした。現在の「シンフォニア岩国」近く、元町1丁目の東小学校グランドに立地していた東共用講堂(共立講堂とも呼んでいました)がその舞台。彼らの心の拠り所は何に付けても恩師熊谷幹雄先生をおいて他にありませんでした。
 時は流れ、先達が灯された小さな炎は、ある時は松明のはじける明かりの如く赤々と燃えさかり、又ある時は燭台の仄かな灯りの如く一吹きで消え入りそうなか細い炎になりながらも綿々と今日に引き継がれています。
 今、私たちがICMCを語る時、心の絆ともいえる熊谷幹先生の人となりを抜きには叶いません。あれから50年近く、時は移ろい、先生を知らない世代が大半となった現在ですが、熱血先生の蒔かれたアンサンブルの種はどっこい根強く育っております。
 昭和51年、当時ICMCの会長でプレクトラムアンサンブル時代には直接、熊谷先生のご指導を仰がれた三浦孔司氏が、現役の諸君にメッセージを贈られたその中に、熊谷先生のことが端的に綴られていますので、氏のご了解を得た上で熊谷幹雄先生のご紹介をさせていただきましょう。   (Y.I)

古い横山校舎でマンドリンを習ってから20数年、当時は血気盛んで情熱の固まりであった先生も、今は普済寺山の墓地にお母さんと静かに眠っておられます。
 昭和21年4月、母校の旧制岩国中学校に赴任された先生は、戦後直後の荒んだ社会が学園内にも滲透しているのに心を痛められ、なんとか少年らしい明るく生々とした表情が取り返せないかと、寄宿舎の舎監をしておられた関係から舎内演芸会を計画され首尾よく大成功を納められました。その後を継いで舎生を中心にハーモニカ・アンサンブルを作られ、いよいよ石神校長先生のご理解を得て、昭和24年12月24日記念すべき最初の合奏「聖夜」を演奏する中で岩高プレクトラム・アンサンブルは呱々の声をあげたのです。丁度あなた方のご両親の青春時代なのです。
 教壇では、国語の教師として、あの特有の鼻にかゝった江戸くずしの名調子“文法”は、マンドリンと共に忘れ去ることはできません。練習では、楽器を弾くことだけを教えるのではなく、礼儀・作法・言葉遣いを初め人間形成に力を入れられ、その上で合奏を教えて来られたように記憶しています。高校時代は、合奏ということを徹底的に教えられ、野球にあるようなワンマンチームは通用せず、しっかりしたアンサンブルを強調しておられました。したがって、選曲も無理な背伸びは厳に慎まれ、あくまで基礎を作る事に専念しておられましたので、3年でようやく曲が出来始めた頃に皆卒業して行くと言って常々残念がっていらっしゃいました。
 先生は、個性も極めて強く、自分が法律だみたいな処もあり、癇癪もちで誰彼の見境なしに雷がなったもので、生徒の作った数え唄の中に“三つ幹の怒りん坊”と唄われたものでした。けれども、その反面には、夜更けて練習が終わった時や夏休みの暑い盛りの練習等には、度々菓子やアイスクリーム等をご褒美として買って下さるといった優しさもあり、こうした心の触れ合いに生徒からは慕われ、卒業生の訪問も跡を断たない程でした。またウィットや洒落を解し、時にはフザケも通じたし自分のニックネーム“猫”を愛しておられた様子も窺うことができました。合奏の合間に何か息抜きの曲をやろうという生徒の希望で“若人”がとり上げられ、愛唱曲として今も引きつがれているのです。
 岩高プレアンは、その後年を追うごとに部員数を増やし、益々隆盛して行く中で恩師は病に抗しきれず、昭和43年ついに帰らぬ人となりました。
 これ程までに情熱をかけて育てあげてこられた合奏の火はさらに燃え続け、いよいよ来年は30回の定期演奏会を迎えることになりました。生徒をとりまく環境は、社会の移り変わりと共に大きく変わり、ラジオ・SPレコードしかなかった時代と比べ様もありませんが、練習に打ち込んだ時の顔は、今も当時も変わりません。
青春の多感な時期を無為無策で終わることなくひたむきに何かを求め、清々しい満足が君を包むならきっと有意義な想い出となるでしょうし、またもしそれがマンドリン合奏であるなら、君の想像する熊谷先生は、補足する説明を要しないでしょう。
 第29回定期演奏会おめでとう!
                      岩国市民マンドリンクラブ
                      会長 三浦孔司 (プレアン第5回卒)

この原稿はS51.9.15の、岩高PE第29回定演プログラムのメッセージから転載しました

大正 4年1月24日 北海道に生まれる
昭和 3年3月31日 岩国町立岩国尋常高小学校高等科修了
昭和 8年3月 2日 山口県立岩国中学校卒業
昭和13年3月25日 早稲田大学高等師範部卒業
昭和13年4月 5日 広島県呉港中学校教諭
昭和15年1月20日 岩国町立岩国商工学校教諭
昭和20年3月31日 山口県立岩国工業学校教諭
昭和21年4月 6日 山口県立岩国中学校教諭 山口県立岩国高等学校教諭
昭和43年7月16日 没